ハヤサキのやや先

断片的な記憶の記録

弁当忘れても傘忘れるな(前編)

山陰の旅を終えて夜行バスを降りると、東京の空は青く澄み渡っていた。ひんやりとした秋風が鼻腔を通り抜けてゆく。夏休みの終わりを実感した瞬間だった。

それから間もなく2週間が経とうとしている。大学に通い、新しくバイトを始め、とある講座に応募して…と、私はせわしい日々の濁流へと引き戻された。それなのに、ふと山陰の旅を思い出してぼんやりしてしまうのは、何よりも「彼」との出会いがあったからだと思う。

 

私は帰省先の九州から東京へと戻るついでに、青春18きっぷを使って山陰地方を旅していた。主たる目的は、水木しげる先生の足跡を辿ること。萩、出雲、松江、安来、米子、境港を一人で巡り、彼とはY町のゲストハウスで出会った。彼は大学のある関東から、ヒッチハイクで九州を目指していた。だから、真逆の方向へ進む二人が、ちょうどY町で出会ったことになる。

Y町には一泊だけする予定だった。19時過ぎにゲストハウスにチェックインし、併設されたカフェで他のお客さんたちとのお喋りを楽しんでいると、「仲間に入れてください」と彼は現れた。そして大きなテーブルの端にいた、私の目の前に座った。それから、彼が大学生であること、私と同様に5年かけて卒業する予定だということ、欧州のとある国に1年間留学していたこと、その間に21ヶ国を旅したこと…、そういうことを知った。

 

私は宿のあまりの居心地の良さに、到着したその日のうちに延泊を決めた。その旨をスタッフの方に伝えると、「Aくんも『もう一泊するかも』って言ってたよ」との返答。そのとき初めて、目の前に座っていた彼の名前が「Aくん」であることを知った。お互い名乗ってすらいなかった。 結局、彼ももう一泊することになった。

「明日は何する予定ですか?」彼が私に尋ねる。「古本屋やカフェに寄りつつ、ぶらぶらしようかなと考えてます。その後で、お隣のK市を歩いてもいいなぁとも…ほとんどノープランです」そんな返事をしたと思う。

「古本屋ですか!」と彼は飛びつく。「はい、この近くの。出雲で出会った方に『絶対に行くべき!』とおすすめされまして」「僕、行く先々で寄ってしまうんですよね、古本屋って」「はは、分かります。私も帰省先の古本屋で何冊も買ってしまって、今バックパックに詰まってます」「それじゃあ、一緒に行きますか」「そうしますか」心地よい会話だった。

 

「実はね、蟹があるらしいんですよ」会話の輪の中にいた一人が言った。「蟹鍋をしようと思って」もう一人も口を揃える。カフェの営業時間や共有ルームの利用時間が迫っていたので、近所に住む一人が「じゃあうちに」と招いてくださった。

降り続く雨に足元を濡らしながら、近所のコンビニへ買い出しに向かった。そのうち一人から「大学では何を勉強しているの?」と尋ねられ、「国際系の学部に所属していて…でも専攻は社会学で、かと思えば空間情報学のゼミに入っていて…何というか、社会科学を広く学んでいる感じです」と長ったるい説明をした。「『国際系学部あるある』ですね」と彼が口を挟む。どうやら彼もいわゆる「国際系の学部」に所属していて、人類学を専攻しているらしかった。

 

鍋の会場となるお宅は、宿からすぐのところだった。「じゃ、僕お風呂入って来るんで、進めててください」そう言って、家主の男性は家を後にした。あまりのゆるさに、思わずにやついてしまう。一人はそこを何度も訪れているようで、鍋の準備を手早く進めていた。

鳥取名産のとうふちくわや白菜を、出汁の入った鍋に入れ、いよいよお待ちかねの蟹が登場。蟹はちょっと火を通すくらいがちょうどいい。柔らかな甘みが口いっぱいに広がった。ちゃぶ台を囲んで、またもやたわいない会話が始まる。一人の言った「実感の伴う幻想」という一節が、今でも頭から離れない。鍋からは半透明の湯気が上り、そして溶けてゆく。

「そういえば水木先生ってNHKの朝ドラにもなったよね」誰かが言った。「2010年ですね」私より先に答えたのは、彼だった。数週間前、私は高校時代の悪友たちと同じような会話をしていたので、なんだか不思議な感じがした。

そろそろ酔いも回ってきた。「シメ、いきますか!」誰かがそう言うと、コンビニから買ってきたカップラーメンを鍋に入れた。醤油、豚骨、シーフード、終いには持っていた全てをごちゃ混ぜにして食べた。「こんなに美味しいカップ麺は初めて!」誰もがそう口にした。蟹の出汁がいい具合に出ていたとか、カップラーメンの組み合わせが良かったとか、そういったことだけが理由じゃないような気がした。そういうことにしておきたかった。

 

そのうち、彼はおもむろにカメラを取り出した。フィルムカメラだった。「あれ、写真撮るの?」と家主の男性が彼に尋ねる。翌朝は近所に住む人々で構成される「写真部」の活動日とのことで、彼はお誘いを受けていた。 一緒に蟹鍋をつついていた数名も、写真部員だった。

皆で後片付けをした後、集合写真を撮った。帰り際、私も「部活」のお誘いを受けた。カメラに関する知識は皆無なので、少しだけ迷った。やがて実家の戸棚から引っ張り出して荷物に入れた「写ルンです」の存在を思い出し、参加させていただくことにした。

時刻はまもなく午前3時。「じゃあ、また明日」「10時にカフェで」「それじゃあお休みなさい」宿の玄関先でそう言い合い、私たちはそれぞれの寝床へと向かった。